はんぞーのブログ

旧・音楽とはすばらしいものだ。

男の花道〜最終章〜

10月1日の試合で23年間の現役生活を終え引退した清原和博選手。
スカパーに録っておいたそのラストゲームと引退セレモニーを先ほど見た。
民放ニュース番組だけでなくCSのプロ野球ニュースでも編集されてしまうからね。
最後は通してじっくり見たかった。
清原がPL学園で活躍していた高校生時代、ボクはまだ野球を知らなかった。
そして清原がプロ入りした86年にボクは野球を始めた。小学生頃のボクの周りはみんな西武ファン。地元チームである西武ライオンズのファンになるのが自然の流れだった。新聞屋にタダチケを貰って友達とよく西武球場に応援に行った。その頃はまさにライオンズの黄金時代。石毛・秋山・工藤・渡辺久・デストラーデ・平野・伊東・辻・郭・田辺等のスター選手揃いのチームの中、若くから「常勝軍団の4番」を張り続け、幾度となく殊勲打を放ってくれたその姿。それは右翼席から声援を送るガキのボクにとって、ホンモノのスーパースターだった。
ライオンズの野球に飽きてしまった中学生の頃にはロッテファンに転向した。高校時代には西武球場で行われる「西武VSロッテ」の試合は毎試合駆けつけるほど熱烈に応援していたので、ライオンズは「因縁の相手」「最大の敵」として見ていた。清原という存在はそんな一番負けたくないチームの4番。しかし当時のロッテの投手陣は貧弱で、清原には何度も手痛い一発を食らった。
その後11年間過ごした西武から自身の夢である巨人へFA移籍。セの野球にあまり興味が無かった事もあり、徐々に興味も減っていった。しかしケガなどで西武時代の華々しい活躍には及ばないのは見ていて苦々しかった。いつからか風貌は厳つくなり体形も変化し、その言動から「番長」などと呼ばれるようにもなった。出場したときはそれなりに成績を残してはいたが、グラウンド外での話題が多い印象がある。しかし全国区の巨人での9年間が、清原を国民的スターに押し上げたようにも思える。
そして05年オフに巨人を追われ、仰木さんの誘いで故郷の大阪へ。晩年は戦力としては無理だと知りつつも、やはり出てくれば応援したくなる選手。清原ならなにかしてくれるのでは、と期待させてくれる存在だった。
引退試合を見ていてもスイングなどから打つのは厳しいだろうなあと思っていたけど、第3打席でライト方向へ清原らしい打球を飛ばした。ホークスの杉内も全球直球勝負をしたのはさすがだな、と。事前の新聞などには「自分らしく変化球を交えていく」みたいなコメントも載っていたけど、もしあれで変化球でキリキリマイさせてたら世論の反発は必至。きっとKYKYとすごいだろうからね。。ホークスのエース左腕の本気のストレートで空振り三振したことで、清原も清々しい気持ちで終えられたんだなと。
引退セレモニーに話を移すと、最後のスピーチにはやっぱり感動したな。オリックスだけでなく、西武ライオンズ関係者、ジャイアンツファンに御礼を述べるのもそうだけど、やはりピークは仰木さんの「お」の言葉で詰まる箇所でボクもグッと来た。ナガブチの演出が予想以上に長くてちょっと間延びした感もあるけど、編集した40分の部分はDVDに残して保存版にしたい。
会場にはイチローや金本など関係者も多数来場していたようで。
そういえば盟友桑田、ライバル野茂も2008年で引退したんだよな。。
KKコンビのプロ入りと同時期にプロ野球と出会ったボクにとっては、今年は一つの区切りの年となりました。
清原は任意引退となりCSに出場しないことで、この日で選手・清原は見納め。
結局プロ23年で打撃三冠の記録には手が届かなかったが、サヨナラ安打・サヨナラ本塁打・通算三振・通算死球・オールスターMVP獲得数などで史上最多の数字を残した。
史上5位となる通算本塁打525本も素晴らしい数字です。
結局復帰後に526本目の花火を打ち上げることは出来なかったが、多くのファンの記憶に残る名選手だったと思います。
清原選手、23年間お疲れ様でした。